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サブカルチャー神話解体 異聞

「小説家や詩人になりたかったがとうとう書けずに哲学者や社会学者になった人は結構いる。また数学者になりたかったのに能力がなく哲学や社会科学を選ばざるを得なかった研究者も多い。そしてこの本は、この両方の失敗を犯した私の本である」 Jon Elster『ユリシーズとセイレーン』

いろいろな方から、『サブカルチャー神話解体』の製作過程について書いてくれといわれている。増補版が出たのでまた興味を持つ読者がいるらしい。共著者とりわけ宮台真司氏、そしてちくま書房には足を向けて眠れない。

 学問的ではない思い出から未発表原稿までいろいろあるのだが、他のお二人の了承を得る必要のないものだけ時々書き連ねてゆこうと思う(敬称略)。都合のいいような記憶の書き換えがあるかもしれないがご容赦を。開き直るならば、<書き手の思い出話など信じてはいけません>。

1989年3月×日
 宮台は晦渋なソシオロゴス論文で一部に知られていた。そのほとんど神経症的といってもいい解体と分類の作業(例えば<規範>という概念について。「既存の規範概念は不毛である」というような身も蓋も無い書き出し!)は快感だった。しかし実は石原が面白いと思ったのは、彼の抽象的な文章の中にあって、注にしかなりえない、数行の同時代分析だった。それは確か、上野千鶴子の用語を援用し若者の新らしいコミュニケーションを、「連他的」と呼んでいる部分だった。  
 面白いことを考える人だな、と感じて大学院生になりたてだった石原は、助手だった氏の研究室を訪れた(1989年3月)。氏は大塚明子から君のことは聞いているといって『権力の予期理論』のゲラを渡し「ちょうど良かった、これ三日で校正して」と言った。これが最初の挨拶だったと思う。

 大塚明子はすでに岩間夏樹のRISEコーポレーションでマーケティング分析のバイトをしており「頭のいい学生」と評判だったらしい。ちなみに大塚と石原は大学入学からずっと同じクラス、同じ専攻だったが、大学院になってはじめて別々になった(大塚は本郷、石原は駒場)。大塚の卒業論文はマスメディア論、石原は言語行為論。

 まさか後にこの三人でサブカルチャーの本を執筆することになるとは夢にも思わず、ルーマン研究の弟子入りをしたつもりで、『情熱としての愛』の英語版を粛々と読む読書会に参加させてもらった。大塚の英語力、宮台の読解は素晴らしく、自分の基礎学力の無さにコンプレックスを感じた。石原の大学院生活は意思決定理論を専門とする教授のゼミと、この読書会で始まった。

 その数ヶ月後、『現代思想』編集者だった堤健(石原とは早稲田大学『文学研究会』での仲間)からSFサークル用語として「おたく」という言葉があることを聞き、「連他性に似た概念で<おたく>という言葉がある」という話を宮台や大塚にした。
 当時はまだ別冊宝島のおたく特集も出ていなかったし中森明夫の証言もそれほど知られていなかったので、語源や定義はあやふやだったが、新しい言葉と堅い社会学の概念の野合が何かを生むかもしれないと漠然と考えた。
 ちなみに『サブカル神話』の語り手モデルの中で「東京の私立高校SF研究会的」な側面は、宮台だけでなく堤の俤を借りている。堤は早稲田学院から早稲田大学に進学したゼルダ(もちろんゲーム名ではない)と柄谷好きの哲学青年だった。1961年生まれ。『サブカル神話』の(あまり多くはないが)ゼルダなどのニューウェーブ系の資料は彼から借りたものが多い。宮台も石原も日本のNWはほとんど評価していなかったし大塚はNWやプログレそのものを聴いたことがなかったはずである。このようにカルチャーの偏食が著しい三人だったので後に包括的な文化研究をする時に苦労することになる。三人とも苦手なジャンルについては数多くのオタクネットワークに頼る作業だった。1989年。

異聞 その2に続く)

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