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サブカルチャー神話解体 異聞 その2

(敬称略)前回より続く

宮台論文の余白に書かれた断片的な同時代分析が面白かったこと,「おたく」という概念がわれわれのサークルに入った詳細が前回の話である。

今回は、当時の宮台論文の面白さについて。同時代分析以外にもうひとつ印象に残ったことを思い出した。

宮台の論文のどこに惹かれたのか。
多くの人は彼の著作に横溢する圧倒的な情報量だという。しかし私の場合は逆だった。彼が<多くのことを知らない>ことに魅力を感じたのだと今になって思う。

宮台の論文には柄谷行人の痕跡が全くなかった。

石原の柄谷体験についてまず述べる。
石原は1982年から数年間早稲田大学に在籍し、前回書いた「文学研究会」という文系サークル(笑)に在籍していた(あとから知ったことだが芥川賞作家の堀江敏幸が後輩)。このサークルで石原は、講演などで毎年呼んでいた柄谷行人と何度も出会うことになり、大いに影響を受けた(その後東大に移ったのも柄谷の一言がきっかけだった)。
 ついでにいうと石原はこのサークルで哲学と少女マンガの大学デビューを果たす。 2年上だった西田裕一(元「現代思想」編集長。現在平凡社)は廣松渉と内田善美を教えてくれたり、早稲田祭で萩尾望都と中上健次の対談を企画するなど、既に名編集者の片鱗をみせていた。柄谷は「探究」を書く以前のかなり鬱な状態のころ(「柄谷の沈黙が現代思想の今年の最大の出来事だ」などといわれていた)で、学生相手に丁寧にお酒につきあってくれたことを覚えている。

 しかしそのような圧倒的な影響力の下で幼稚な学徒は余計なことをいろいろ考える(柄谷はすごいけど自分には何が書けるのか。文学に行こうか。しかし石原は大岡昇平が好きだが文学的素養は皆無だった。同じサークルの金子千佳の詩作を読んで、自分の文学をあっけなく諦めた)。

 思うに80年代後半は、文学や哲学に煮詰まった多くの現代思想学生が、社会科学に向かっていた。石原の個人史としては、柄谷の影響から脱して駒場教養学部のディシプリンで頭の中をゼロから組み立てなおす時期だった。

 そういう時期にはどんなすぐれた論文でも、柄谷の痕跡があるだけで拒否していた。たとえば大澤真幸の当時の研究は、柄谷の社会学への応用にしか見えなかった(もちろんそうでないことは現在ならよくわかる)。
 1989年に宮台と知り合ってから個人的に彼から入手したペーパーの中で、クリプキの「ヴィトゲンシュタインのパラドックス」を巡っての大澤との論争ものがある。
 これを読むと柄谷の痕跡がある/なしの話がよくわかると思う(現在ではどこかに発表されているのだろうか?)。
 簡単にいうと、クリプキを柄谷流に解釈する大澤と、柄谷を読んでいない(と思われる)宮台のクリプキ解釈の対立である。
 今読んでみても、大澤、そしてその前提になっている柄谷によるクリプキ解釈は大変ユニークである。だが私は、宮台のとても素直な解釈のほうが逆に新鮮だった。

「柄谷行人をちゃんと読んだことないでしょ?」と後に訊ねたことがある。彼が「あんまり好きではなかった」と言ったか「いやもちろん全部読んでいる」とむきになって答えたかは忘れてしまった。

 話を元に戻すと、私が宮台の論文を読んで面白いと思ったのは、彼の思考に柄谷行人の痕跡がなかったからである。1988年。

(異聞その3 に続く)

 

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